<いのち>の授業 
見たくない、しりたくない、したくない。
そんなことが世の中で通用するのですか?
[23] 私の言葉じゃ不充分かもしれませんが…
投稿者:まゆ 投稿日:2002/12/31(火) 17:33

 私は、筑水高校で解体実習を行った生徒です。テレビにも出ています。

このテレビ放送で、賛否両論のメール・ファックスをKBCの方から見せてもらいました。昨日の朝に再放送があったので、どんなメールが来ているのか見てみました。

 私の言葉じゃ、不充分かもしれません。でも、最後まで見てください。

あの実習は、宗教的でも何でもありません。現代の子供…私達や若い大人の方は、昔の方に比べたら、食べ物を残す事が多いと思います。それは、「殺した事がない」からだと思います。
 私の両親は子供のころ、クリスマスの時期、正月の時期、誕生日などのときに、飼っていた鶏がいつのまにかいなくなっていることがあるといっていました。代わりに、食卓にがめ煮やいろんな鶏肉料理が並んでいたといっていました。私は、「鶏肉はスーパーに売ってあるもの」としか考えていませんでした。でもスーパーに行きつくまでには、鶏肉以外も、みんなが考えた事ない経由をたどっている事言う事を授業で学びました。
 実習を行うと聞いたときは「ふ〜ん」としか思ってなかったけど、いざ自分だけの卵を貰って、育てていくと愛情がわいて「殺したくない」という具体的な気持ちが生まれました。そこまでだったら誰でもできることです。それを実行することは、初めて殺してしまうという罪の意識が宿るんです。愛情を注げば注ぐほど、解体実習を行った後考える事が多くなるんです。今までは考えた事もなかった、家畜業者の方の苦労とかの気持ち、解体業者の方の苦労とかの気持ち。人間的にとても成長する事ができるのです。きっと、先生たちはそれを私達に教えたかったのです。あえて口にしなかったのは、それを自分で感じとって欲しいって思ったんじゃないのかなって思います。(あくまでも、私の考えですが)
 あの実習をしたからこそ、卵を一人一つずつ貰ったからこそ、今、私がこの考えを人に発表する事ができるのです。メールに書いてあった言葉は、難しい表現があったからよく判らないところもあったけど、私達は洗脳されていませんし、そのような心配はいらなです。私達は一人の人間です。あの授業をイヤと思えば私達は学校を当日、休む事もできました。あの日私達が学校に行ったのは、自分の意思なのです。はたから見たら、先生の押し付けのように思われるかもしれません。私達の授業は矛盾にしか見えないところもあります、でも、そうじゃないんです。表現する事ができないのですが、鶏が一瞬のうちに死んでしまった姿を見ると、「1分1秒を一生懸命生きていく事」をとても大切と思い、この世に生まれた事を幸せに感じる事ができます。愛するものを殺す時、その罪悪感を感じる事で私達は人間を殺す事ができなくなるのです。愛する両親を殺す事と、鶏を殺す事では意味が違います。人間の肉を食卓には出しません。にわとりの肉は食卓に出ます。意味もなく命を殺せば言いと言う考えとは違います。見たくない、しりたくない、したくない。そんなことが世の中で通用するのですか?見たくない、知りたくない、したくないそんなことをただ言っているだけなら、人として、成長する事ができないと思います。

考えは人それぞれです。同じ学校の人でも、様々な考えを皆持っています。テレビやラジオを見られた方、聞かれた方にも、様々な考えがあるのもわかります。でも、宗教的な授業ではないということを、頭の片隅にでも入れてください。

表現が下手で、ごめんなさい。テレビを見てくれた方ありがとうございました。
KBCのみなさん、ありがとうございました。

まゆさんの投稿は下記の投稿に対する意見です。
Re[8]: 久留米筑水高校のニワトリ飼育・解体教について

> > テレビ朝日「テレメンタリー 鶏からの贈り物」に対する感想
> >
> > 「教育現場に教祖は必要か」
> >
> > あまりにも身勝手でバカげた教育である。教師は神様にでもなったつもりかという怒りの思いがこみ上げてきた。命や食べ物の大切さを教えるためにあんなことを強要することはない。反論する能力が未熟な生徒に理論武装したつもりの教師がインパクト重視の思い上がりを押しつけており、都会で田舎出身の若者がキャッチセールスや新興宗教につかまり、高額の買い物や入会をしてしまうのと同じ構造である。
> > 結局、最終的には、命の大切さを教えるなどといいながら、食べ残し、好き嫌い、精一杯生きるとか本質とは関係ないことばかり言っており、理論に弱いお山の大将教師の思い上がりであり、憤慨を覚えました。
> >
> > @生物界は「弱肉強食」が摂理でなかったか。
> > 鶏は体が小さく、人間より弱く、肉がおいしくて、増やしやすくて飼いやすいから、古くから食用にしている。生物は命を維持し子孫を残すため弱者を食う。これが現実であり真実であり、すべてである。
> > 教師が押しつける「贈り物・・・」「食べられた弱者が報われるよう精一杯生きる。」「命を大切に・・・」など、これは非科学的で理論に弱く思考能力に乏しい教師の宗教である。残念ながら、ご本人は気づいていない。(生物の授業と矛盾しているのでないか)
> >
> > A愛するものを殺すことが必要か。
> > 生徒に世話をさせて十分に心が通いあったところで殺させている。愛情をもったものも殺してみれば案外平気で、なおかつ食べると旨いという体験をさせることの影響が心配である。(鶏を購入してきて解体するのであればまだ多少は理解できるが・・・・)殺すことで命の尊さがわかるのであれば、いっそうのこと愛する肉親も殺す実習をしてみてはいかがと言いたくなる。
> >
> > B人には見たくない、知りたくない、したくない権利もある。
> > 人間として見たくない、したくない、知りたくないことを選択する権利もあるはず。この教祖教師は人権無視も甚だしい。真実は直視しなければならないのであれば、放送に規制は必要ない。番組においても、吹き出す血や、けいれんする鶏の映像を避けているではないか。(人権教育と矛盾してないですか)
> >
> > 以上、感じた点です。教育現場に新興宗教は必要ありません。また、この宗教に感染した生徒や教師も心配です。
> > (2児の父 公務員 43歳 )
>
> 始めまして、わたしは中学校の教師(48歳)をしています。
>
> 結論から先に何を怒ってらっしゃるのかよくわかりません。
>
> もう日がたってるので、読まれないかとも思いますが、一言、まず筑水高校はいわゆる農業高校で「食品流通科」の授業です。それから考えても「にわとりの解体や豚の解体」が特別なこととは思いません。
>
> 少なくとも「農業の後継者が主に通う学校ですから」たまたま、テレビがセンセーショナルにとりあげたからであって、田舎では私も小さい頃、にわとり小屋のにわとりが一羽消え、たしか「首を切られて、つるされていた」風景を思い出します。さっき「みように、かん高い鶏の声」がしたなと思ったら「晩御飯のおかずが、がめ煮」だった。
>
> それから「弱肉強食」は誤解です。自然界では「存在しません」いわゆる「食物連鎖」であれば理解できますし、こちらの方が科学的でしよう。
>
> 農業こそ、その「食物連鎖」の流れに乗って営まれるものです。
>
> 実際、つい最近の動物学ではジャングルでは、動物たちは「テリトリー」を守って共存共栄している。ということが明らかになりました。
>
> 確かに、分業化された社会で改めて「解体」などを授業として取り上げる必要はないといえばそれまでですが、しかしこうも考えられるのでは、社会の仕組みからいえば、例えば、テレビの販売の営業マンは「テレビさえ売ってれば良いのか」ということにもつながるし、工場はただテレビだけ作っていればいいのか。ということにもなるのではないでしようか。
>
> 将来、確かに「農業経営者になるとは限らないし、鶏や牛や豚の解体の仕事つく子ばかりではないし、普通の勤め人になるかも知れない」が、いずれにせよ。自分の狭い範囲だけをみるより、広い視野で自分の社会を見渡すことにも役立つことではないでしようか。
>
> でも、そんなことは「その子」の人生であって、他人が解体の授業が将来に役に立つかどうかは、どうでもいいことであると思います。
>
> それから「宗教教育または教祖的教師」と言われますが、ある意味、教師は「カリスマ性」が必要です。それは、実践に基ずく人間的迫力です。教師批判によくあるように「指導力」です。むしろ「カリスマ性」のない教師は「指導力不足」として批判されています。
 希望を!