<いのち>の授業 永水レポート

  

『命の教育』
−久留米筑水高校 食品流通科 1年生の皆さんと共に−
嘉穂郡庄内町立庄内小学校 教諭 永水 セキコ

 この度は、「鶏の飼育と加工・利用」の体験学習に一緒に体験させていただきありがとうございました。
 今年、私が勤務している庄内小学校では、6年生のあるクラスが、1学期末「総合的な学習の時間」に『おもしろ宿泊体験』と称して、鶏の解体をして自分たちの夕食づくりをするという体験学習をしました。解体する鶏と児童はそのときが初対面で、解体をしたときの児童の心の動きについては、話題にもならないくらい平静に近いものだったようです。その後、夏季休業中の校内研修会で筑後教育事務所の山口主任指導主事から、久留米筑水高校での体験学習の話を聞きました。「自分たちの手で卵から大事に飼育していた鶏をと殺して解体する体験学習と、初めて見る鶏を解体する体験学習との、学びの深さの違い」について、考えざるを得なくなりました。
 そのようなとき、9月14日のセンター研の終了時に、私たちが受けているこの講座の12月8日の研修が久留米筑水高校で行われることや雛を育てる体験を私たちも共にさせていただけることなどの連絡を聞き、その偶然に驚きました。
 さっそく、帰宅してから「私たちはいつでも好きなときに鶏肉を食べることができる。それは、私たちの代わりに他の人が鶏をと殺して解体してくれているから。私たちはこれからも、他の人が殺してくれた鶏肉は食べ続けるだろう。だから、この研修では自分が鶏を殺すのは嫌だということで逃げてはならないと思うから、家で鶏を飼うという申し込みをしたい。」と、家族を説得しました。いつもの私らしくない理屈が、思わず口から出ていました。
 これまで私が勤務してきた小学校にも、鶏小屋があって、鶏を数羽飼育していたこともありました。また、それらの鶏の世話をする飼育委員会(5〜6年生の児童の一部で構成している)の指導を担当したこともありました。けれど、それらの鶏を「かわいい。」と思ったことはなく、鶏小屋の中に入っても「つつかれそう・・・。」と考えながら私は必要以上鶏に近づくことを避け、ただ機械的な世話だけをしていました。ですから、鶏をこの両手で抱きかかえたことなどありませんでした。
 また、家でも、子どもたちから「犬を飼いたい。」と、せがまれたときには「まだ、(あなたが)小さいから、犬を十分世話してあげることができないでしょ。」という理屈をつけて断るなど、生き物の世話は面倒なことだと考えていた私です。
 10月28日に、久留米筑水高校に伺って高尾先生とお会いし、生徒さんが大事に育てている雛を2羽お預かりしました。食べるために・解体するために・殺すために、新しい命と出会うということを、私は、今回初めて経験しました。複雑な気持ちで雛を眺めたことを記憶しています。
 約1時間半車を走らせ家に連れて帰りました。帰り着いてから、これから6週間どのように雛の世話をしようかと、あわてて考えました。
 結局、若いころ大工をしていた隣のおじいちゃんに、90×60×45cmの鶏小屋を作ってもらうようにお願いしました。次に、子どもたちが赤ちゃんのころに使っていた古い電気あんかを2個探し出してきました。そして、イタチなどの外敵や寒さから雛を守るため、玄関で飼うようにしました。
 鶏小屋の中に敷くオガクズは、庄内町の生活体験学校に相談し、馬小屋用に保管してあったオガクズを分けていただきました。オガクズの量があまり多くはなかったので、45g用のビニール袋にオガクズを分けて入れ座布団のようにして鶏小屋に敷き、シーツで包むような要領で新聞紙を4〜5枚重ねてその上に敷きました。その新聞紙は、毎日朝と夜に新しいものと交換するようにしました。
天気の良い休日には、夫は子どもたちにも手伝ってもらって鶏小屋を玄関の外に運び出して、雛に日光浴をわせるようにしました。
天気が悪くて薄暗い日には、玄関の蛍光灯を昼間もずっと点けて明るくしておくようにしました。
 初めの1週間くらいの私は、鶏小屋の掃除も世話も下手だったので、もたもたしてばかりでした。このころの世話を投げ出さずに続けていた私の心の中には、「12月8日までの辛抱だから・・・。あと、6週間なんだから・・・。」というような(何とも申し訳ない)意識があったように思います。
 次第に、鶏小屋の掃除も要領よくできるようになり、雛の体が、本当に毎日、少しずつ成長している変化を実感していくうち、私の心に、義務的に育てているのとは違う別の感情が芽生えてきました。
 2羽とも雄だったので、日に日に鶏冠が膨らんできました。3週目ごろから、早朝には、
「コーッ・・・、・・・、コーッ・・・。」と声を出すようにもなりました。なかなか、上手に歌えるようにならず、11月末頃になって、ようやく「コケ、コッコ・・・。」と、歌うことができるようになりました。それからは毎朝、決まって、6時15分頃に1回、6時30分頃に3回ほど歌いました。初めて鶏が歌ったときには、2階でまだ寝ていた小学5年生になる息子の耳にも鶏の声が届いたようで、あわてて起きていきました。
 鶏のほうも、人間不信の感情を持っていなかったようで、私や家族や来客などの人影が玄関に近づくたびに鶏小屋から顔を出し、首をかしげて私達を見るようになりました。
 鶏小屋の掃除をするときには、掃除が終わるまで2羽の鶏を庭に放していました。毎回、ばたつきながら抱きかかえられて庭に放されていた鶏たちも、日を重ねるうちに、静かに抱っこされるようになりました。また、庭でもうろうろすることが少なくなり、ひとりでに玄関に戻ってきて鶏小屋の掃除が終わるのを待つようにもなりました。
 鶏の糞のにおいが玄関中に漂うことだけは、ずっと我慢するしかないと考えていたのですが、世話を続けているうちに、朝起きてすぐの糞と日が暮れてする糞の臭いが強いことが分かってきました。そこで、鶏小屋に敷いている新聞紙を交換するタイミングもつかみ、玄関の臭いも快適さが保てるようになりました。
 もう、糞を素手で摘むことも平気にできるようになってきました。コロンとした糞が出たときには、「立派な糞をすることがきたね。できしたぞ。」と、鶏を密かに誉めている自分に気づきました。こんな感情は、本当に久しぶりの感情でした。高校1年生になる娘や小学校5年生の息子が幼かったころ、オムツを換えるときに感じた気持ちとほとんど同じような感情が、この2羽の鶏に対しても湧いていたのではないかと思います。
 鶏の飼育をしている期間中に「食品流通科の1年生の皆さんと交流を持とう。手紙やメールなどに私がお預かりしている鶏の写真も入れて送ろう。」と幾度も考えました。けれど、とうとう1度も交流を持たないまま12月8日を迎えることになってしまいました。忙しかったのでそれができなかった、というわけではありません。元気に成長している鶏の様子をお知らせしないでいたら、「2羽ともうまく育てることができず残念な結果になってしまった。」という言い訳をする道が残るかも知れない。と殺・解体からこの鶏たちをこっそり救うことができるかも知れない。と考えるようになっていたのです。なんとも、卑怯な情けない気持ちです。
 私の家にいる鶏たちのすべての事情を承知している同僚から薦められた本を3冊、この6週間の間に、読みました。
 1冊目は、ある小学校教師が著した『いのちの授業』で、小学4年生の、鶏の解体の授業のことも書いてあり、久留米筑水高校の授業と重なるものが多い内容で、読んでいるうちに、私自身も持っている「人間のエゴ」に向き合うことを迫られました。
 2冊目は、心理学者が著した本で、たくさんの児童理解・「人」理解、カウンセリングをしてきた体験から考えられたことが書いてあり、その「人」が持っている未来の可能性を信じながら接することの大切さを改めて考えました。
 3冊目は、ホスピス病棟のある医師が著した本で、死期が迫る患者の家族へのケアについても書いてあり、鶏と別れるときの(私自身が鶏の命を絶つときの)心の整理をどのようにつけたらよいのかを探るような気持ちで読みました。
 12月8日が近づくにつれて、私や家族が玄関に座り込んで鶏の動きをじっと見つめる時間が長くなってきました。75歳になる私の母も、「鶏のことが気になって、じーっと見つめてしまうっちゃね。せないかんことがあるとに、なーにも手につかんとよー。」と、つぶやいていました。
 鶏は、やっぱり、日に日に成長を続けていました。鶏を健康な状態で12月8日を迎えさせてあげなければならないなんて、なんとも、おかしな矛盾が見えてきました。
 私は、これまで食材の買い物をするときに、価格よりも安全なものを求めてきました。それは、ある面では、「健康な状態でと殺されたもの」が安全な食肉であるということを私自身が考えていることでもあるのですね。
鶏の飼育を始めてから、買い物をするときの私の姿勢が変化しました。私の家では、二人の子どもが食べ盛りになったので、パックに入った肉類を買うときも、子どもの空腹を十二分に満たしてる肉が「余るくらい」たっぷりと買うようにしていたことの申し訳なさに、気づくことができました。
「少し足りないくらいの食材を買って、大事にいただかなくちゃ。肉を腐らせたりするくらいなら、この動物(鶏や牛や豚)は殺される必要なんてなかったはず。」と考えるようになり、犠牲になった動物の命のことを思いながら買い物の量を調節するようになりました。
私は、12月8日の2日前から、涙がこみ上げてくるようになりました。私の涙などこれまでにほとんど見たことにない息子は、泣いている私に言葉をかけてくることもしきらず、ただそわそわと私の様子を心配して見ていました。
 前日には、学校でも鶏のことを話題にしないではいられなかったので、職員室で、親しい先生に話を聞いていただきました。そして、「鶏がかわいいなら、ひといきにしめてあげなさい・・・ね。あまり、苦しませないように・・・ね。」と、声をかけていただきました。
 前日の夜、鶏の絶飲食のために、餌と水を取り上げるときの忍びない気持ちは、たまらないものがありました。それから、玄関の灯りを消すまでのしばらくの間、玄関を私や家族が通りかかったときの鶏の動きが、餌をねだるような仕草をしているように思え、今でも、忘れることができません。
 12月8日は、6時30分過ぎに鶏を運ぶためのダンボールを玄関に置きました。ダンボールから飛び出さないようにするため、どんな具合に蓋を閉めようかと考えました。でも、蓋なんて閉めなくても、この2羽の鶏は、ダンボールから逃げ出そうとなんて、きっとしないだろうと思いました。もしかしたら、昨夜からの絶飲食のために力が弱っているかも知れない、とも思いましたし、庭に放しても自分から鶏小屋に戻ってくるくらいだから逃げだそうとはしないだろう、とも思いました。また、周りの様子が全く分からないような状態で車の音や振動を感じたら、鶏が恐怖心を抱くだろうし、せめて、ダンボールの天井を開け放しておいて、わずかな景色を見せてやりたい、とも思い、ダンボールの蓋は閉めずに車の後部座席にのせて家を出ました。鶏の支度より前に、夫が娘を車に乗せて学校に送っていきました。家に中には、まだ学校に登校する前の息子とわたしの母が、居ました。その二人に気づかれないように、私は、そっと鶏をダンボールに入れ、車に乗せ、出発することにしました。涙の別れをしたくないと考えたからです。
でも、車を走らせると、こらえようとしても涙が溢れてきます。運転しながら涙を何度も拭い、できる限り、鶏にやさしい運転を心がけました。
 筑水高校での一日は、短い一日でした。そのときの心情をうまく表現する言葉が、どうしても見つかりません。もう息の絶えてしまった鶏であっても、私には、かわいいい鶏です。「羽をきれいに取ってあげたい。血だらけの首のあたりもきれいに洗ってあげたい。」と思いました。羽を取りながら、解体をしながら、何度も鶏の頭をなでてあげました。鶏を水で洗っているとき、一瞬だけ、無性に腹立だしい感情を覚えました。確か、トレーニング姿ではなくスーツを着た女性が近づいてきて、隣で水洗いをされている鶏に少し手を触れて、すぐその手を引っ込めた様子を見てしまったときです。「死んだ鶏に、失礼でしょ!」と叫びたくなるほどの怒りが込み上げてきました。
 そうしているうちに、まわりで「参観だけ」をしておられる方々のことも、人間の誰もが持っている「他人事の感覚」「冷淡さ」を体現してくれているような光景に見えてきました。
 水炊きを食べるときは、「食べてあげなくちゃ。」という思いで食べ始めました。口に広がる極上のおいしさを噛みしめながら、いただきました。
 帰りの車は、寂しいものでした。何も物音がしないのです。
 「チュッチュン、チュッチュン。」
 朝、出かけるときまで聞こえていた鶏の声が、もう、何も聞こえません。ただ、私自身が解体した鶏肉だけが、ビニール袋に入って、置いたとおりに、じっとそこにありました。何も語らない肉片になってしまった鶏と一緒に、来た道を戻りました。途中、何度も車を止めて泣きました。
 家に帰り着くとすぐに、鶏小屋の最後の掃除をしました。そして、台所で鶏肉の仕分けをしました。鶏肉を「せいいっぱい、おいしく」いただくために、その日は、鶏肉を少しだけ料理するようにしました。7切れほどの唐揚げを5人の家族で分けて食べました。他の鶏肉は、無駄にならないように、小分けして冷凍しました。
 その唐揚げを食べるとき、小学5年生の息子は、「食べきらん・・・。」と言い、ためらっていましたが、高校1年生の娘が、「一緒に食べよう。」と、声をかけてなんとか食べることができました。片づけをするときに、娘に唐揚げの味がどうだったか尋ねました。
 「おいしかったよ。でも、セツナイ味がしたよ。」という、言葉が返ってきました。
 セツナイ・・・。
 そうでした。この日の心情を言葉で表現するとしたら、これが最もふさわしい言葉でした。
 希望を!