<いのち>の授業 高尾コラム

  『殺して食べる☆学習か残酷か』


「命を頂く」大切さ
西日本新聞 夕刊 2002・01.04 『ひとしずく』Newspaper in Education
福岡県立久留米筑水高校主任実習助手 高尾忠男氏(59)

 昨年12月のブロイラー解体実習も、例年と同じように1年生の生徒達の号泣と悲鳴の中で終わりました。卵をかえし、自分で名前をつけたヒヨコを育て、自ら解体して食べる。実習は、生徒にとって日常の生活ではあり得ないショッキングな体験ですが、「命の尊さと重さ」を刻み込んだと信じています。私が「解体実習」に取り組んだ動機は、少年の凶悪な犯罪が続発する背景に、若者の命に対する価値観の欠落があり、人としての基本的な「心の教育」が忘れられていると思ったからです。
 「どうしたら命の教育ができるか」。教師数人で話し合った結果、1年の教科にあるブロイラー飼育の活用にたどりついたのです。愛情を注いで育てた鶏の命を自らの手で絶ち、さばく。かけがえのない命を「ありがたくいただく」ことを通して「命の重さ」を実感できるのではないかと、1996年から始めました。
 実習当日、生徒たちは鶏の足や羽根を縛り、包丁の峰で頭を叩いて気絶させ、頸動脈を切ります。前日に今の気持ちを文章にさせると、生徒のほとんどが「なぜ殺さなければいけないのか」「私は絶対にしない」などと書いていました。
 生徒たちは泣きじゃくりながら、鶏の首を切ります。真っ赤な返り血が飛び、教室は異様な雰囲気に包まれ、私でも逃げ出したくなるような気持ちになります。
 殺した後は、ハクサイとともに「水炊き」にして食べるのですが、「頂きます」と言って食べます。「生き物の命を頂く」という本当の意味での「頂きます」です。「絶対に食べない」と言っていた生徒が「おいしい」と鳥肉を口に運び、明るい表情で「お代わり」をするのです。そんな自分の変化を生徒たちは不思議がります。
 この実習で、「命の大切さ」が生徒たちの心に根づくかどうか、簡単には答は出ません。でも、理屈では理解できない体験をすることで、今まで経験したことのない実感を得ることになります。それが生徒の「心の成長」につながるのは間違いないと思っています。
鶏の解体実習  写真
鶏を殺してはいけないのか
どう教える命の大切さ
ルポライター鎌田慧 日本農業新聞「視点」 2001年12月17日

 「教育」というと、なにかしかつめらしい、窮屈な、硬い感じになるのは、子どもと教師の間に、文部科学省や教育委員会が介在しているからだ。
 もっと気楽に、楽しく、自由にやればいいのに、と私などが思うのは、戦後、間もないころの小学校教育を受けているからだ。
 すると、戦後の何年間かは窮屈ではなかったことになる。いつごろから、というと、1965年の中教審答申だった「期待される人間像」が出されたころとか、84年の「臨教審」が発足してから、と諸説がある。
 しかし、教育をいじくりまわしたいのは、いつの世でも権力を持っている側だから、年々歳々というべきか、しだいに文部科学省や教育委員会の意向が強まってきたのだ。

 教育の介在に疑問

 11月に、秋田県のある町の小学校で起こった「事件」に対して、教育委員会がそこまでやっていいのか、と私ははなはだ疑問だ。
 ある小学校のクラスで、子どもたちが、自分たちで育てた鶏をさばいて、カレーライスに入れて食べることを計画していた。ところが、それを知った町の教育長が、授業をとりやめさせる電話をかけ、中止になった。
 私が関心あるのは、その中止について、学校がどういうふうに説明したかである。取材にいっていないので、なんともいえないのだが、理屈として考えられるのは
 @鶏を殺してはいけない
 A鶏を殺してもいいが、自分で育てたのはいけない
 B自分で育てた鶏を殺して食べてもいいが、自分でやってはいけない
 C自分でやってもいいが、学校でやってはいけない
 D学校でやってもいいが、学校で食べてはいけない
 などが考えられる。
 「朝日新聞」(11月13日付)によれば、町教委の幹部は、「もし実行されれば、児童が心のトラウマ(精神的外傷)を抱え、影響は計りしれない。果物を育てて食べるのと、育てた動物を殺すのとでは訳が違う」と話している、という。

 差別発生つながる

 それでは、育てた動物を殺すのはどうしていけないのか、ということになる。農家はどうするのか。そのように、あらたまって質問されると、この幹部は、「それはいいですけど、ただ、子どもの目の前では、ね」と弁明するかもしれない。
 が、子どものトラウマにならないように、秘密に殺しなさい、というなら、鶏を殺すことは本当は悪いことだ、となる。
 食べるのはいいけど、殺すのは悪い、というのでは、殺す人たちは悪い人間、と教育するのと同じである。
 鶏や牛や豚を殺す人は、悪い人なのか。そこで差別が発生する。
 生き物のすべてが、生き物の命を頂いて生きている。だから命が大事なのだ、という考え方は、「禁止」だけからは出てこない。

育てた鶏食べ学ぶこと  eメール時評
作家・歌人 小嵐九八郎 朝日新聞 コラム「文化」 20011219

 小学生の時、秋田の草深いところから祖父が鶏を送ってくれたことがある。卵を産んでくれるときはよかったが、そのうち飼育が面倒となった。そしたら祖父がやってきて、鶏の首を出刃包丁で刎ね、首のない鶏は庭を走り回り、驚いた。
 羽を1枚1枚むしりながら可哀想と思ったけれど、きりたんぽにしたら、肉のおいしいこと。聞くと農家では祝い事があると農耕馬や牛を屠(ほふ)って食べるという。「悲しでやア、嬉しでやア」と語り合い。
 人間というのはほかの生き物を犠牲にしてしか生きられない定めを持つと知らされ、ほかの生き物を殺して食うことの尊さみたいなものを教わり、祖父には感謝している。
 「鶏を飼って、食肉として処分、その肉で子どもがカレーを作って食べる」という授業をめぐって、秋田県の小学校の先生が批判された。「同じ生き物で同時に学ぶところに若干の無理」と言われたりもしている。
 生命原理を冷厳に見つめることは、生き物への愛情があった方が分かりやすい。じかに腕が舌が事実を感じるからだ。
 私は、この女性教諭の飼育するだけ、食うだけではない、人の生きるつらさと鶏の生と死を照らす、肌を通した教育に頭を垂れる。鶏殺しは、その煮詰まった場だし、文化の一つである。
 とかく教育の世界ではきれい事が多いが、人類の食料史はそんな甘いものではないと思う。
 希望を!